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稲荷町会
時代が変わっても人の心をつなぐ稲荷町会のお稲荷さん

ヨドバシカメラの裏、吉祥寺図書館や本町コミュニティーセンターが並ぶ通りはその名を「本町稲荷通り」といいます。稲荷神社と関係があるのかなと思いつつ周囲を見渡してもその姿は見当たりません。でもふと空の方を仰ぎみてみると…マンションの一番上の方に赤いお社があることに気がつきます。

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​​「吉祥寺かるた 行くぜ!イースト」の札

実は地上15階だったのはご愛嬌。

「稲がなる」に由来するといわれる稲荷神社。狐は神の使いとされる

街の開発が進む中で現在の場所に移設されたそうですが、聞けばその歴史は吉祥寺の街の成り立ちに端を発し、お社は何百年と街の人たちをつなぐ拠り所となっていることがわかりました。駅に隣接した商業地域であるこの界隈は、かつて大勢の子どもたちの声が響くにぎやかな住宅街だったといいます。お稲荷さんの持ち主で稲荷町会商店会の河田(笠原)裕美子さん、商店会会長 今田祥二さん、副会長 小倉忠幸さん、イーストサイドで生まれ育ち長く街を見てこられたお三方から話を伺いました。

−河田さんのご先祖様がこの地に祠を建てられたそうですね。
 
河田さん 江戸時代に「明暦の大火」(1657年)という大きな火事がありました。多くの人が住むところを失いましたが、その時に本郷(現在の水道橋あたり)の「吉祥寺」というお寺の周辺から移住してきた人たちが開墾したのが吉祥寺の始まりです。河田家が大事に保存してきた当時の地割りを記す古文書(現在、「武蔵野ふるさと歴史館」に所蔵)によると河田家は五日市街道から井の頭公園辺りまでの土地を所有していたようです。
 
「武蔵野の雑木林」と言いますけれど、武蔵野台地はもともと水が少なく痩せた土地で、土が固くて米も育たないなど、稲作にはあまり適していませんでした。しかし、大火で移住してきた人はこの土地で生きることに覚悟を決めて開墾し、このような土地でも育てられる麦やウドを栽培する農家として生計を立てていました。河田家も同様で、子どもの頃の記憶をたどると、庭の傍にあった深い穴はウドの畑の入り口だったようです。悪いことしたら「穴に入れますよ」なんて叱られたりしたことを思い出します(笑)五穀豊穣の神様として知られるお稲荷さんはどこの農家にもあったのだと思います。河田家のお稲荷さんは、1690年(元禄初年)頃からあったと思いますが、先祖の河田太左衛門から時に総本社である京都の伏見稲荷に鳥居を奉納したと聞いています。河田家は戦後の農地改革で小作人や住んでいる人に土地を譲ってきたのですが、その過程で敷地内を移設させながらお稲荷さんを守ってきました。
 
小倉さん うちは吉祥寺に来る前は巣鴨に住んでいましたが、同じように家のなかに屋敷稲荷があって、親が「お稲荷さんを大事にしなさい」とよく話していました。吉祥寺に移ってからも近くでお店を営んでいる家にもやっぱりお稲荷さんがあって、「(お稲荷さんの)お祭りをする」といっては近所の人が集まり、子どもたちが通るとお菓子が配られ、地域に暮らす人々にとってとても身近な存在だったように思います。稲荷町会のお稲荷さんは、僕たちが子どもの頃は今の本町稲荷通とベルロードの角(本町コミュニティセンターの南側)のあたりにお社があり、私たちにとって大切なものでした。

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本町稲荷通り(写真左)と写真手前の角にかつてあったお社(写真右 提供:稲荷町会)

今田さん うちはちょうどお稲荷さんの目の前に家がありました。それほど大きくないけれど赤い鳥居があって、5つのお祝いの時(昭和20年代中頃)に鳥居の前で写真を撮ったのを覚えています。鳥居をくぐってちょっと斜めに進んだ道の先にお社がありました。木の柵が周りを囲んでいて、お神輿をしまっている倉庫や藤棚があったと思います。子どもたちの遊び場になっていて、紙芝居が来たり隣の空き地でお祭りしたり、とにかくにぎやかでした。

 

河田さん 明治か大正くらいからその場所にあったのかもしれません。吉祥寺図書館の北側あたりが自宅だったので、そんなに離れていないところに移したのかなと思います。

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お祭りに集まる子どもたち(昭和27年)(写真提供:稲荷町会)

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お稲荷さんが人々の集いの場のシンボル的な存在となり、後の町会発足の礎となった

−お稲荷さんがまちに住む方たちの交流の場であり続けたのですね。情報交換の場として発足した「稲荷町会」ももうすぐ90周年を迎えられると伺いました。

 

今田さん 稲荷町会の発足は1935(昭和10)年で、昭和30年頃の最盛期には会員数が380ほどでした。畑や雑木林も残りつつ、通りには八百屋さん、魚屋さん、お寿司屋さん、印刷屋さん、ガラス屋に酒屋さんと店が並んでいて、町会でバス旅行をしたり、楽しい催しがたくさんありました。子どもたちもたくさんいたから料亭魚徳さん(現在のヨドバシカメラ)のところで盆踊りや運動会なんかもしていたんですよ。

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旧魚徳広場で行われた運動会(昭和34年)(写真提供:稲荷町会)

−運動会ですか!
小倉さん 当時は魚徳広場なんて呼ばれていましたが、魚徳さんが旅館をつくるために温泉を掘ろうとしたこともあったんですよ。結局温泉はでませんでしたが、たぶん更地になっている間に運動会やお祭りをしたのだと思います。

今田さん 毎年行われている「吉祥寺秋まつり」は今年で50年になりますが、それより昔はどの町会も人数が多かったのでエリアごとにお祭りをしていました。武蔵野中から集まる市の盆踊り大会や「井の頭音頭コンクール大会」などもあって、稲荷町会は優勝するくらい踊りが上手な町会だったんです。河田さんの家の庭でもいろいろな催しが開かれていました。
 

−お稲荷さんを通じて、街の方々との温かな交流がたくさんあったのですね。
 
河田さん 敷地が広かったので、空いているところに櫓を建ててお祭りをしたり敬老の会を開いたり。お正月が終わって2月には初午祭(伏見稲荷大社に農業を司る神が降臨した日とされ、稲荷神社のお祭りとして広まったもの)も行っていたので、市や町会の人もたくさん来てくださっていました。
お稲荷さんを自宅の敷地に移した後も、「家の外から人けがするな」と思って後で覗いてみたら、お寿司のおいなりさんや賽銭が置いてあったことを覚えています。
当時は、今のように誰が来るかわからないと心配するようなことも一切なくて。気軽に近所のお家を訪ねていって話をするようなお付き合いがあったと思います。お互いに顔や人柄がわかっているとお願いしやすいし、お願いされやすい。お祭りは集まるよいきっかけになりますし、お稲荷さんがあることによって人の気持ちがそこに集まってくるように感じます。みんなが集まって楽しい時間を共有した記憶は「心の種まき」だったのではと思っています。そんなお稲荷さんをこれからも大事に守っていきたいと思います。

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PLOFILE:(左から)

堀内 正嗣さん

今田 祥二さん

河田(笠原) 裕美子さん

小倉 忠幸さん