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吉祥寺の新しい顔となるような、宝の場所

吉祥寺東部地区まちづくり協議会会長 小松由美さん

両親がハーモニカ横丁の中でお店を営まれていたという小松由美さんは、ハーモニカ横丁で生まれ育った生粋の吉祥寺人!さまざまな活動を通してまちづくりに関わり、現在はお住まいでもあるイーストサイドエリアで、吉祥寺東部地区まちづくり協議会会長を務められる小松さんにお話を伺いました。

イーストサイドで思い出に残っている場所などはありますか?

昔、吉祥寺大通り沿いに「近鉄百貨店」(現在のヨドバシカメラ)があって、エスカレーターで上がっていくと、ガラス張りになった壁のところが広いスペースになっていて、小鳥がたくさんいました。「井の頭自然文化園」の中に昔あった「熱帯鳥温室」みたいな素敵な雰囲気で好きでした。

家族でデパートに行って食事をするというのがその当時の流行りで、飲食フロアにあった「銀座アスター」も人気でした。吉祥寺は今でもファンが多くて、このイーストサイドにお店が復活した時は特に年代の高い人は喜んでいましたね。

近鉄の裏の方へ行くような事はほとんどありませんでした。夜になると急にネオンがきらめくような感じでしたけれど昼間は、お店は開いていなかったイメージです。昔は、デパート含めてどこも夕方8時閉店が多かったと思います。ハーモニカ横丁も商店同士がみんな7時半過ぎると急にパタパタっと閉め始めて、8時頃になるとあちこちから「おやすみなさい」って声を掛け合ってみんな帰るんです。私はそれがすごく好きで、子どもながらによそのお店のおじさん、おばさんたちに「おやすみなさい」って言って歩いた覚えがあります(笑)。

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  吉祥寺東部地区まちづくり協議会会長を引き継がれて、まちに対してどんな思いでいらっしゃいますか?

前会長が「吉祥寺のこのエリアは風俗店が減ってから増えてこない。それは地元の人たちや行政がずっと活動を継続しているからこそで、周りからも高く評価いただいている」とよくおっしゃっていました。パトロールをしたり誰かが気を配っていたり、やはりまちの人たちの目が大事なのだと思います。皆さんがこれまで長い間「環境浄化」を打ち出し、まちのためにいろいろ尽力してくださいましたので、それを土台に良いものを取り入れていけるよう、より前向きな方向にシフトしていけたらと思っています。

女性や子どもがたくさん来るようなまちは、明るくて行きやすいまちだと思うので、そんな方々が増えたらうれしいです。この地域に住む方が家と駅などを行き来する時に「通りたい道、楽しく家に帰れるような道」であって欲しいと思うので、できれば地域のお母さんやお子さんといった方々にもまちづくりに参加していただいて、一緒に考えていけたら良いと思っています。

私は商店街育ちで賑やかなところが好きなので、このエリアには住んで25年くらいですが、誰か人のいる明るい場所を通って帰るとほっとします。ほかにはないような個性的なお店もあるので、そういうお店を訪ねてきてくださる方ももっと増えたらいいですね。

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  吉祥寺のまちづくりに関わられるようになったきっかけはどんなことでしたか?

私はずっと、吉祥寺はおしゃれなまちだという思いがあったのですが、ある時ふとまちの雰囲気がガラッと変わっていることに気がついたんです。自分が関わって見てこなかった間に、記憶にあった70~80年代の風景とは違って、まちには似合わないような看板があったり、お店の種類も変わったりしていました。それで「まちに関わりを持って何か自分にできることはないか」と思い始めたことが地域活動のきっかけです。子育てを始めてからなのでこの20年ぐらいです。

  小松さんにとって、吉祥寺の魅力はどんなところだと思いますか?

1970年代前後に再開発が進められた時、「太陽と水と緑の街 吉祥寺」というコンセプトがあったのですが、吉祥寺は本当にそうした要素で出来ていて、それがとても良かったと思っています。緑を植えることも大事にしていましたし、憩いの空間がまちの中にあって、「伊勢丹」(現コピス吉祥寺)や「近鉄百貨店」(現ヨドバシカメラ)の入り口付近には噴水がありました。「緑屋」さん(現ロフト)の1階にもトレヴィの泉のような白い大理石の水場があって、きれいな眺めでした。「平和通り」も当時アーケードになっていたのですが、「パルコ」を建てる時にあえてそれを全部外して空が見えようにしたので、とても開放的になりました。

いつの間にか噴水がなくなり、緑が減り、建物が高くなるにつれて空も狭くなってきて、子どもの時から肌で感じてきた風の流れ、まちの匂いのようなものが大きく変わってしまったように思います。必ずしも原点回帰と言うわけではないけれど、いま、吉祥寺らしさとか吉祥寺の良いところをもう一度見直す時期にきているのかなと思います。「吉祥寺村」として生まれた始まりからこのまちにはいろいろなものが積み重なってきていて、よく言うんですがそれらが「まちの遺伝子」なのだと思うのです。その「まちの遺伝子」を大切にしながらまちづくりをしていくのが良いのではないかと思います。

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  吉祥寺の「まちの遺伝子」とはどのようなものでしょうか?

吉祥寺って商人のまちだと思うんです。もともと今の水道橋駅近くにあったお寺の門前で暮らしていた町人たちが(明暦の大火で)移り住んでできたのが「吉祥寺村」の始まりです。やがて隣接する五日市街道沿いに、江戸まで薪や炭などを売りに行く人たちに向けた商売が生まれ、休憩するための飯屋や、必要とする道具を売る店などが並び発展していったと聞きます。支え合い、尊重し合い、お互いのためになるものを考えたり自分たちで工夫を凝らしてモノを作ったりしながら商いをする、そんなところが「吉祥寺の遺伝子」だと私は思っています。今でも「吉祥寺のまちのために何かしたい」と人が集まると、自然とアイディアが生まれてくるような、そんな心意気を感じます。

  イーストサイドにはまだまだ隠れた魅力がありそうですね。

かつての「夜のまち」というイメージもまだ大きいですが、まちの雰囲気を変えることによって、いろいろな業種の人がもっと気軽に入ってこられるようになると思います。ビルの中のテナントさんも坪数がそれほど大きくないところもありますし、お家賃を考えても比較的吉祥寺の中では入りやすいと思うので、新しく若い世代の人が入って何かできるような場所になるといいなと思います。イーストサイドは吉祥寺の中で残された、これからいろいろなことができる本当に貴重な場所じゃないかなと思います。これから吉祥寺の新しい顔ができる、宝の場所としてみんなで育てていけたら良いと思います。(取材日 2020年12月15日)

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